2009年10月12日月曜日

本題にもどろう

一ヶ月たってしまった。秋風が吹き京都のきーやんから新しいイベントの案内がきた。大倉陶園とのコラボのお知らせだ。その時たまたま 私は小学校の同窓会で京都にいく きーやんは毎回案内をくれる。律儀な人柄だ。リーダーには欠かせないものだろう だからこそMOJOもやれたし無謀にもザッパまでやれたのだ。盛り上げるそれは客を集める為ではない!自らを鼓舞し形の無いものから形をつくり面白く人が集う これがイベントだ 祭りだ!ザッパの時にはそれまでの集大成 そんな感じだった。
大文字山にでかい懐中電灯を一人二個づつ持って100人ぐらい登ってZの字を夜空に浮かばせた。
勿論 事前に新聞社には今夜 大文字山で何かが起こると予告して置いた。山から降りてくると大文字保存会の人たちに信仰の対象としての大文字を汚すな!と 叱られた。反論はあったが 御免なさい と言い喧嘩にはならなかって 鴨川三条河原にZの巨大な風船を土木のコンプレッサーを使いふくらませた。チケットの割り印に本物の印石を使い(雑葉)と押した。後にザッパのレコードジャケットにその印がつかわれている。そんなこんなーーーでした。

2009年9月8日火曜日

イベントってなんだろう?

バリ祭からイベントのおもしろさにとりつかれ色々な事にかかわってきた。裏方の端くれとしてーーー

ミュージシャンの中にはメジャーになった人たちも多いがそれらの人を生む楽しさとはまるで別物!ザッパのイベントの前に私の父母の出身地 山陰の香住でのイベントの事を書いてみよう。JRの駅で5駅でひとつの町 人口3000人 漁業の町です。京都から当時は車で5時間ぐらいかかった。その町にいる私の従弟から青年団で自分達のイベントをやりたい何か出来ないか?と言って来た。出来れば当時ブレークしていた(あのねのね)を呼びたいとのことーー私は彼らは面白くない!やるなら青年団も喜び町の人も楽しみ私達も楽しめるそんなイベントにしたい。勿論 出るミュージシャンも満足して帰る。すべての事がクリヤーできてはじめて よいイベントなのだ。これは常々きーやんから教わったものだ。早速きーやに相談した。かまやつを呼ぼうときーやんが即答してくれた。当時かまやつさんはテレビドラマの(時間ですよ)に出ていて人気者だった。あとはロックとはこれだ!と田舎の人に見せる、本物のフォークとは拓郎やかぐや姫でなく これだ!ロックでは村八分とTOOMUCHが私の仲間だった。村八分を田舎に出てもらうには刺激が強すぎTOOMUCHに頼んだ。フォークは豊田ゆうぞう 豊田君とはべ平連のときからの付き合い、心よく引き受けてくれた。きーやんはかまやつさんに連絡してくれ個人的に頼んでくれた。事務所をとおすと日だて50万円 そんなギャラだった。港町から大漁旗を送らせてTシャツを作り地元の青年団スタッフに着せた。スケジュールはかまやつさんのオフに合わせた。PAもすべて京都から運んだ。総勢50人位のロン毛チームが たしかアメリカ人も数名いた。香住の小さい町にかなりの刺激をあたえた。観客は800人の大入り会場は小学校の体育館 かまやつさんはテレビドラマの衣装を着て盛り上げてくれた。町の人は聞いたことのない大音響に驚きながらもノリノリ 青年団も大喜び京都からの仲間とかまやつさんも皆おなじ民宿で雑魚寝!かまやつさんのギャラはあご足込みで20万円。とにかく現金で渡したら彼は 楽しんだからと言って10万返してくれた。TOOMUCHは現地の若者と仲良くなり浜小屋に泊まり続けスタジオとして遊び半月ほど居続けた。総勢50人が宿泊して遊び赤字も出さず皆が楽しんだ。これこそイベントだとおもった。

2009年8月29日土曜日

昨夜 西部講堂で

再生 FTB フラワートラベリングバンドときーやんの絵のコラボイベントが行われた。京都の夏の暑さは格別なものがある。西部は勿論 エヤコンなんてのはない!当初この夏 きーやんは大掛かりなロックイベントを考えていたようだが会場の問題がありやむなくフラワーのみとなった。フラワーはらアメリカツアーにでかけていたようだ。アメリカではシターラのオリエンタルな響きと(悟り)がマッチして好評だったそうだ。西部講堂では心配していた客も500人を越え、さすがきーやん パワーあるな!フラワーと云えば メイクアップコンサートもMOJOのメンバー達でやったな 発泡材で大きな象をつくり、ジヨーがターザンさながらに象に乗り 悟りを歌っていた。京都で金儲けでなく 皆が楽しむ 祭り そんなイベントが何故やり続けられたのだろう きーやんはじめ皆が楽しんでいた。それしかない。その極みがフランクザッパのイベントだった。きーやんが最初にザッパの話をもってきた時、西部講堂では学生間のトラブルで事務所を近くのYMCAが運営している地塩寮にあった。学生は外タレの公演に何故 西部講堂を使わせるのか!金儲けの片棒は担げない!大反対だった。私はきーやんにかわって 馬鹿野郎!何が金儲けだ!いくら入っても600人が限度の西部講堂でザッパをやって金が儲かる?寝ぼけるな!詳しく説明するまでもない。学生達はわかってくれた。それからが大変 裕也さんはどうしても西部でザッパをやりたいどんなに赤字をだしてもやりたい。ザッパサイドに無理を頼み東京での公演をひとつふやした。私達もなにがなんでも成功させようときーやん泰ちゃん小松ちゃんそしてMOJOのメンバー再動員!色々仕掛けた正にこれまでの総仕上げの感があった。仔細は次回に!

2009年8月23日日曜日

思い出すことがーーーー

ありすぎて前後の関係がぐちゃぐちゃ 読み難いでしょうがご勘弁ください。村八分が生まれた頃を思うと水谷君の裸のラリーズの事を抜きにしては語れない。水谷君のことは小松ちゃんに教えられた小松ちゃんは同志社の放送部によく出入りしていた1965年ころかな同志社はブンドの活動拠点だった。清水と云うペンネームだった藤本敏夫(後に加藤登紀子さんの夫)氏がリーダーだった。ベトナム反戦運動の中心メンバー鶴見俊輔氏も同志社にいたと思う。藤本さんと泰ちゃん小松ちゃん達がベトナム反戦の闘士 ジェーンホンダが来日した時 彼女を同志社に招いた。前売りは完売 当日は溢れるばかりの人の波 取りあえず第二会場を準備するも間にあわず勿論 チケットもない確か千円だったかとにかく現金受け取りどんどん入れた。会場の外に溢れた人の為にジェーンさんが階段に立ち中庭の人たちにギターを聞かせた。水谷くんとはその頃 出会った。小松ちゃんは水谷くんに惚れ切っていた。まだフジオたちと出会う前だ。教育文化センターのホールで客は僅か7名 関係者入れて15名くらいの入りだった。そんな中で小松ちゃんは資金稼ぎの為か 園まりの公演にも関わっていた。今から思うと奇妙な感じだがファションショウの演出や照明も同時にしていた。小松ちゃんに付いて廻っていた私はお陰で色々な人に出会えた。私は徐々にロックの仲間にのめりこんで入った。政治活動、演劇の人達は 酒!ロックの人は非合法へ!どちらも酩酊を求めていたのか!?酒の人は早死にした。泰ちゃん小松ちゃん藤本さん。この世にいない!

2009年8月18日火曜日

幻野祭と西部講堂

西部講堂の屋根に絵を描こうと思いついたのはきーやん もともと絵の上手い人加えて派手好き!泰ちゃんものりのり71年に成田空港反対闘争の中で祭りをとやられた幻野祭は京大のバリ祭のイメージそのものO次元も参加していた。72年に第二回幻野祭を京大でやろうと云う事になった。8月14日15日16日の3日間 すべて無料 カンパがたよりの大イベント その幕開けが西部講堂の屋根のペインテング デザインは九条山ヨシダミノルさんのアトリエグループ このアトリエは主人が渡米中だったので若者たちが自由に使っていた。村八分もスタジオとしていた。デザインのチーフは一昨年他界したゴリさん 夏らしく白い雲が浮かび3つのオリオンが輝く、3つのオリオンは赤軍のメンバーの死を思うのイメージと重ね合わすもご自由にとゴリさんは思っていた。とにかく美しかった。その画像は村八分のジャケットに残っている。ただただ大変だった。暑かった.屋根の勾配が想像以上にきつかった。ペンキ代が当時で20万以上かかったような覚えがある。ペンキは買っても買っても屋根に吸い込まれていく後にきーやんが誰の金だったんだろうと私に聞いてきた。私は若くして親の後をついでいた。店の売り上げを毎日ポケットに入れて京大通いもう時効だが立命の中川会館にも店のトラックにガソリンと灯油積んで差し入れしたこともあった。汗だくで20人ぐらいかな2日たっぷりかかった。山岳部もロープや人手も協力してくれたと思う。それだけでなくバス停にブルーに塗った空き缶ぶらさげ矢印すべてを京大に向けた。オープン前夜に路上にブルーの矢印たどれば京大農学部グランド ロックは農学部グランド 西部講堂では芝居や舞踏 メインは16日の大文字に併せたロックイベント豊田勇造が大文字と云う歌を赤々と燃え盛る大文字をバックに歌っていた。

2009年8月17日月曜日

幻野祭まで

1970年大晦日に紅白だけがはないだろうときーやん泰ちゃんが徹夜でやろうぜロックを!ご近所様には騒音と苦情が警察に通報されたが毎年恒例になった。後に西部の大晦日に出ると翌年ヒットすると言われるようになった。キャロル出た翌年にはダウンタウンが白いナッパ服でキヤロルの黒のレザーのつなぎ服をパロッたのだろうと笑っていた。見事にヒットした。ガロもカルメンマキも元々は裕也さんの選択が素晴らしのだろう。ある時がらがらの京都会館で私の隣に裕也さんがいて このバンドいいね
と言ったのがウエストロードだった。1971年3月MOJOが西部講堂でスタートした。隔週というハードな企画 時々円山公園の野外音楽堂や府立体育館でのビックイベントをまじえての展開だった。府立体育館では過激派の資金集めと勘違いした警察が乗り込んで来た。MOJOのちらしが(今どきはフラィヤーと言うよだが)過激派とされた人たちの出入りする店に置かれていたからだ。MOJOは政治も芸術もいわんや宗教も関係なく楽しく集まるそのことだけ たまたま過激派の人たちも同じような店に来ていたのだ。MOJOは常に金銭的にはピンチ ノーギャラが当たり前 交通費も出せないそれでも東京から来てくれた。なんだったんだろう 楽しかったのだろう そんなことは警察に想像すらできなかったのだろう。
世間の常識からはずれると過激派とされるならMOJOも同じなんだろう。幻野祭はつぎにーーー

2009年8月13日木曜日

西部講堂の自主管理

正確な日時は覚えていないが泰ちゃんの奥さんがやっていた吉田山の白樺で話がすすんだ。大学は皆のもの自冶が基本 しかし安保闘争 三池闘争 次々と権力に打ち負かされ大学の自冶すらも警察導入となっていた。そこで西部講堂を学生の自主管理にする。その為には持続的にイベントを打ち学生以外の若者がいつも集まる結果的に 皆の空間 このことが大切なのだと 同じことが同じ時期に 吉田寮と熊野寮で展開された。京都には元々 学生はんと云う呼び名が市民にあった。親しみとしての呼び名 学生はんがしゃはることやさかいになあ こんな感じで少々のことには寛容だった。教授の中にも多くのリベラルな人がいた。高橋和巳さんはその代表格だった。のちに泰ちゃんが死んだ時 当時京大総長だった奥田東さんが葬儀に参列し泰ちゃんをしのんでいた。敵対するのではなく心の奥底で共有するものがあったのだろう。学生のなかでの対立のほうがやっかいだった。映画部と軽音楽部が既得権に固守した。彼らも加えて西部講堂連絡協議会を作った。小松ちゃんは状況劇場の唐さん舞踏の麿さん達を呼びきーやんは内田裕也さんと連携してロックのイベント MOJOを企画した。こうして西部講堂は自主管理に道をつけた。その決定打が幻野祭!

2009年8月6日木曜日

旅からもどって

少し話がとぎれましたがきーやんと会って8月のロックイベントの話しを聞きました。当初はかなりの規模 70年代の再現を考えていたようだが会場の問題がネックとなった。大音響これを騒音ととらえられて京都市サイドのokがとれなかった。やむなく西部講堂で再生フラワーときーやんの絵のコラボイベントにするそうだ。ロックを騒音とされることは40年たってもかわらないのだなーーーそして未だに西部講堂だけが我らのスペースなのか?西部講堂のことを少し詳しく書き込んでいこう。バリ祭 これがすべての始まり京大のバリケードの中で祭りをやろう!小松ちゃんと泰ちゃん(高瀬泰司)全共闘のメンバーが中心になってだ。小松ちゃんは裸のラリーズの水谷君をすごいやつだと常々話していた。そのラリーズ、ゼロ次元の全裸パホーマンス、スキャンダラスの渦中にいた荒木一郎 こんなメンバーだった。安保の時は社会主義が標榜されて夢見た私だがバリ祭のころは反権力 ただそれだけだった。楽しかった。ロックのシーンではきーやん(木村英輝)がTOO MUCHというイベントを京都会館でやっていたと思う。その頃、西部講堂は京大映画部と演劇部が管理していた。そこに目をつけたのが泰ちゃん 泰ちゃんは京都府学連の代表 京大全共闘のリーダー 小松ちゃんは小劇場ドラマ工房の主宰者 きーやんはイベントプロジューサー この三人が西部講堂を自由空間 誰でも使えるようにしようとしたのだ。政治的に知恵の働く泰ちゃんが考え出した方法が西部講堂連絡協議会の設立 まさに40年たった今もいきつづけている。

2009年8月5日水曜日

京都から十津川へ

京都できーやんを訪ねました。集団納骨棚に蓮の絵を描いていました。お墓は後を守る人がいる。家族という単位 一番小さな単位がなくなりつつありそれでも自分の死後はなんらかのかたちで残したいのかなーーーそれとも死後の準備をすべて自分で整えておき安心したいのかな?なんだかそんな疑問が浮かびました。京都はまさにお寺の町どこを歩いても寺ばかり沢山の人が寺を訪れる。たしかに美しいし心が癒される。それと死後の準備はべつのことでしょう。京都から十津川の山奥に住んでいる友人の家に行きました。彼らは違うが全共闘運動のあと多くの人が何かを求めて自然の中に移り住みました。自然農法を目指した人そこで組織化して事業にした人もいる。漢方医療に向かったひともいる。禅寺や日本山妙法寺や山岸会に何かを感じて入った人も多い。十津川にもかなりの人が自然の中で暮らしたいとの思いで住んでいる。私は僅か4日の滞在で美味しいとこだけ味わったが日常品の買い物に往復2時間 町までは往復4時間 戸数16軒 人口35名 ほとんどが高齢者 いわいる限界集落 でも心豊かに生活は営まれている。かってロックイベントに関わっていた人たちも蒔きを割り風呂をわかし いのししや猿と知恵比べしながら自給自足生活をおくっている。不便を承知の上で!若者は皆、大阪や京都、東京に出て行ってしまっている。何故だろうと考えせせられる旅でした。

2009年7月25日土曜日

鈍行から高速へ

明日から私は京都に行きます。年に5回ぐらい帰ってます。そうです帰るのだ。京都には昔からの仲間がいます それは私がのちに出会ったロックイベントの仲間達です 学生運動していた人たちは何処にいるやらです 安保から警職法 そうだこの警職法が今 どこでも誰でも職務質問される かなり強制的に!そのことを許す法律です 大学管理法なんてのも安保の後に出てきた そんなもによりとにかく若者も労働者も皆 萎えた!萎えることに耐えかね苛立ち次々と新左翼の分派行動が起き先鋭過激化していく かなりはしょる事になるが歴史は専門家にまかせます 全共闘 今までのすべての大学での価値観を変えようという運動が医者の卵 研修医の青年医師連合がら始まり大学全体に広がりました 私はすでに組織からはなれ家業をついでいたが血が騒ぎ京大に出入りするようになった 六曜社で出会った小松辰夫 彼の影響がかなり大きい 高校の時から六曜社にはいつもいた 六曜社はいわいる文化人から私達まで幅ひろくおもしろい人達の溜まり場だった 後にちゃー坊もよくそこに居たしフジオもよく来ていた 小松ちゃんが京大のバリケードの中でイベントをやろうよ 手伝えよと誘われバリ祭に!最高におもしろかった これだ!そしてこれが私の人生を今に至らせた 明日 鈍行でなく高速で帰ります。

2009年7月23日木曜日

鈍行列車

古い言葉は廃れていく 鈍行まさにのろのろと進む事 13時間と思っていたが夜9時ごろ京都を出て昼過ぎに東京に着いたような気がする 15時間ぐらいかかったのだろう 学割使って700円なぜだかよく覚えている 急行だと9時間で1000円 300円の差は大きかったそんな時代だ 列車の乗客は安保反対デモの為に上京する学生と創価学会の人たちが身延山大石寺に団体参拝する人その両者がほとんどだった 学会の人も私達も急行には乗れなかった 車中で学会の人に政治よりも宗教が大切だよ創価学会に入りなさい信じなさいとすすめられた 今 学生運動は壊滅し私達が目指していたものはなんだったのかそんな状況なのに学会は大きな勢力となり日本の政治の中枢にいる ここでも何故だ!学会の人たちは明け方 豊橋で身延線に乗り換える為に降りていった 怪我するなよと何度もこえをかけてくれた 一人一人は気持ちのやさしい人たちだったその人たちが今 日本の保守勢力となって私達の否定していたものを支えている 何故だ!

2009年7月20日月曜日

私の記憶と今の行動すべてがーーー

49年前をからわずかと感じている 国会の周りは人、人、人の波!催涙弾が目の前に落ちた誰かが死んだ!4人死んだと大声でアジっている。のちに樺美智子さんが亡くなった事がわかった。人波に押されて圧死と警察は発表した。時の総理は辞職した。しかし何も変わらなかった。何故だ?その何故だが?私のすべての始まりです。これからこのブログで僅かと感じている事柄を正につれづれなるままに書き連ねていきます。