2010年12月5日日曜日

西部講堂はーーー

姿 形は かわらねど 煌めき無きは 意味のないことーーー
ただそこに残骸のごとく あった!
見る私にエネルギーを受ける能力が薄れたのかとも思ってみたがーーー
イベントのリハーサルが始まっても数人の人がただなんとなく動いているだけーーー
はやっていないライブハウスの開演前ーーー
そうか 西部講堂は単なる 小屋になったんだ!
いみじくも フジオが言っていた 燃やしてしまえ!---
フジオ独特の勘なのかーーーあるから いつまでもただあるからいけないのかもしれない
それはまるで 荒れたお寺 いや 荒れたお寺は不気味と云うエネルギーを出している
今の西部にはその 不気味すらない!
もう少しゆっくり整理してこの事を考えよう
今回 京都で素晴らしい若者達に出会った
若者が10人集まって町屋を借りて溜まり場を作っているのだ
そこから発信する まさに 西部講堂を自分達で作っているのだ
このあたりに 何かがある 
京都ファクトリーと彼らは名ずけている 

2010年11月26日金曜日

36年ぶりの西部講堂

11月18日 フジオのライブの為に西部講堂を訪ねた 
何も変わってない! 時間が止まっていたのか? 
西部講堂の持っているパワーなのか?
建物は変わってないしかし何かが違う なんだろうーーーー
11月21日 いよいよフジオのライブ当日だ 
何かがちがう それは人間だ! ライブの日だというのに 淡々としている
スッタフの人数もすくなく熱気がまったくない  何故?
久しぶりにこのブログを書いて 今後はその 何故を私なりに考えて行きたい
66歳 限界的エネルギーを消費して東京に帰ってきた

2010年6月21日月曜日

記憶がーーー

かなり記憶があいまいだ 特に時系列に弱い
あんなことあったな? こんなことあったな?
間違いがあるかもーーーお許しを!
ジグザグと白樺 ジグザグは銀閣寺のそば 石川兄弟が経営 おしゃれな店
白樺は泰ちゃんの奥さんの家を改造した吉田山のスナック
白樺には京大の学生や先生 かなり過激と言われている人たちの溜まり場 ここで最晩年の荒畑寒村さんを見た 90歳を軽くこえていた 泰ちゃんはものすごく 柔らかい頭の持ち主 政治からスタートしてるかもだが音楽も舞踏も何でもありの人   ラクビー大好きで吉田ラクビー団をつくり自分も走ってた 練習は京大農学部グランド 勿論 無断借用
ある時 新聞に赤軍派の武闘訓練なんて書かれたが純粋にラクビーがやりたかったのだ
一時 正式に京都ラクビー協会に入っていた クラブチームとしてや
まったくどこにも勝てなかった
白樺には毎日のように小松ちゃんが行っていた
そこで 西部講堂の話が出てきたのだ 泰ちゃんは麿さんを絶賛!そのながれの アリアドーネの会の
公演に協力していた
西部は舞踏の人たちのエネルギーで内部の整備や雨漏りの修理がなされた
勿論 学生や芝居の人の力も大きなものだった
西部講堂は泰ちゃんの思考と行動でなりたっていた

2010年6月19日土曜日

ミクシーに書き出したらーーー

村八分のこと 思い出すままミクシーに書き込んだら 反応がいっぱいあった
ブログを探すのは 大変だからかな
ミクシーの 村八サイト 4500人のメンバーだ いるもんだな
村八の誕生には色んな要素が集まってその結果として 村八分があるのだ
当然 チャー坊 フジオの卓越した個性は一番の要素だけどーーー
私は その時代をここで書いていた
若い人は村八に特化してみているようだ
ミクシーの何人かがこちらのブログを見てくれたらーーー
そんなわけで そろりそろりだけどこちらも書き込みつづけます

安保闘争から50年すぎた 今 沖縄の問題が騒がれている
その根本にあるのは 安保条約なのだ
1960年6月15日 樺 美智子さんが国会議事堂南門前で死亡した
警察はデモ隊による圧死と発表 遺族や検視した医者はこん棒による腹部の突き上げによる脾臓破裂と首の絞め上げと今も問題にしている
とにかく 権力はなんでもありなのだ
フジオがよく言っている 日本一の暴力団は山口組じゃない よく考えろ!ってね

2010年5月23日日曜日

ちゃー坊はーーー

最近 20歳の女の子からちゃー坊は何故死んだのですか?
こんなことを聞かれた。
彼女は15歳のときに 村八分に出会い 大分の田舎町にはCDも売ってなくて、ひたすらユーチュウブ
などで探して聞いていたそうだ。
先日のフジオのタワーレコードのイベントに来ていて 私が誰かと西部講堂の話をしていたのに
興味をもったそうだ。
西部講堂は勿論のこと、ちゃー坊の墓参りもしてきた。村八分のメンバーが出入りしていた店の
情報も集めて、現在残っている店には行ってきたとのこと
まるで、ちゃー坊を神様のようにしている。
私が?と思うことも逸話としていた。
そのようなこともあり ふたたび 書き込みをはじめた。
ちゃー坊は死に向かって走っていたのではないか?
こんなことを書いたら 誤解をうけるだろうが 私は彼を見ていて当時からそんな印象をもっていた
自暴自棄 わからずや いや ありきたりの表現では言い表せない。
すごく やさしく 我がまま はずかしがりや 或る時は気がながく 或る時は気短 
美しい女性が好きで 中身のない女性は嫌い
思い出すとどんどん 実際のちゃー坊から離れていく
ようは 一緒にいないと空気はわからん空気は言葉にできない。
ちゃー坊は何の病気で死んだのか 全身衰弱 身も心も衰弱して 気持ちよく生きれる旅に!
死の数時間前まで一緒にいた私の友人も 機嫌よく じゃね!と別れたのが最後だと言っている
私がちゃー坊と初めて会ったのは チャー坊の話によればちゃー坊の高校生の時 ビョロンだそうだ
私はまるで覚えてないがチャー坊がそう話していた
ビョロンは祇園の地下の飲み屋 私が学生の頃行っていた そこに高校生のチャー坊が来ていたことになる ビョロンには演劇や詩人志望の者たち 過激派といわれた人たちも溜まり場
チャー坊は おませな高校生だったのだ。

2010年3月16日火曜日

なぜドープがーーー

今も変わらずドープが話題にあがりますね 多分私たちの世代が第一期生ではないかと思っています。アメリカからヒッピーという文化が伝わりだしたこともその大きな要素でしょう。時代と云う一言でかたずけることは出来ません。今もその事は常に話題になっているし大きな問題ですからーーーこれを真剣に論じたら文化論になり本が何冊もかけるでしょう。私は学者ではありませんから事柄と感想だけを書いていきます。まず当時にグラスを吸っていた人 私も含めて皆 お酒を飲まないあるいは飲めない人達だった。そして最初に日本に持ち込んで来たのは日本の若者が何でも見てやろうとの気持ちでインドに旅立ちインドから北上しヨーロッパへ今のバックパッカーですよね、その人達がタイでグラスに出会いインドでチョコ トルコでオピーム等に出会っていったのです。たどり着く先はアムステルダム 旅の中で世界中の旅人と出会い音楽での出会いが文化を超えて一番早かったのでしょう。文学や美術は言語や知識がいりますが音は直接身体に反応しますからね。グラスは古代より使われていた物 音に敏感になると云う特性がありますからね、彼らが日本に帰ってきたころ欧米からやはり旅人さんたちが沢山 日本にやってきました。当然 彼らもグラスやチョコを持って入ってきました。彼らは京都の風景や文化に居心地がよかったのでしょう多くの人が集まりました。まだLSDは法律では禁止されていませんでした。ビートルズがイエローサブマリンを作った時あたりです。日本にもLSDが入ってきました。驚きましたね忘れもしません。貨物列車の操車場の見える広々とした所で今はドイツで現代美術家として活躍している赤井さんと何人かで飲んだのです。その非日常性 幻想 そうですアルコールでもそうだと思いますが非日常的なのです。日常に飽き飽きしている自分に非日常は楽しい心地よいのです。それが仮の幻想であってもーーーーここのとこらに落とし穴があるのですね。

2010年3月12日金曜日

久しく書いてなかった すみません

なにやかんやとありましてーーー今日 TOOMACHのジュニーのことを聞かれましてそうだ奇麗事でなく京都でなにがあったか書いていこうとおもいました。  今週初めにTOOMACHのベースだった福ちゃんが家族と共に来日して来ました。福ちゃんは私に始めてグラスを吸わせた男です。木曾の山から取ってきて乾燥させていました。そのグラスからまさにスタートしてチェンマイまでスマックを買出しにいくまでエスカレートしたのです。そんな福ちゃんはドロドロの京都から逃げ出して日本山妙法寺に入りアメリカに修業に出かけました。福が居なくなっていたことすら私はきずきませんでした。スマックのシックを抜ける為に覚えたスピードの世界にはまりどうしょうもないとこに居たのです。村八分の皆も同じようなところにいました。ジュニーは一日中 ジグザグの一番おくの椅子に座りまったく無言で過ごしていました。
十日間ぐらいでしょうか朝 開店と同時に来て閉店まで無言 ジュニーの抗議だったのか。頭がおかしくなったのかーーーーそのような時に福はアメリカに行ったのです。20年ほど過ぎたある日私は青山で福からの電話を受けた ヘイ!社長!ふくだよと突然の電話それも携帯にだ。どここからと聞くとボストン郊外の自宅からとのことだった。福は日本山の僧侶になるには、なにかしっくりこなくって最後の仕事として佛舎利塔をボストン郊外に建てたら日本に帰ろうとしていたそうだ。建築中に今の奥さんと出会いアメリカで大工として仕事を始め今 二人の子供と奥さん 素晴らしい家庭を持っている。こんなことが最近 ああそうだ京都で何があったかそのことも書かねばならないなと思い直しました。うっくり書き続けます。