2013年12月28日土曜日

年の暮れ

何度迎えても歳のくれだ。東京にきて40年になる10回も引っ越した。4年に一度の計算になるが半年で移動したことが3回はあるので自分では転々とした印象はない。
八月の暑い日に足立に来た。それまでは杉並、世田谷、三鷹、仙川、なぜだか西の方にいた。
仙川から会社まで行き帰りで3時間、なんと不合理な事をしていたのかーーー6月に偶然に犬に出会いそいつを乗せて移動していたがそいつが車に弱く毎日ゲロゲローーーこれはかなわんと会社のそばに移った。なんと楽な!家から5分で仕事場。
これが普通なんだな40年前は阿佐ヶ谷から上野まで通っていた。最長は三鷹からだった。
なんとも感じていなかった。友人たちも西に住んでいたからだろうか。
さすがに人並みに歳をとったのか今年の夏は堪えた。
暑い盛りに冨士夫君が亡くなった。京都を離れる前に冨士夫君達とよく遊んだ。なにからなにまでどっぷりの生活だった。日常の否定と云うことだけがその原点かもしっれない。 
8月14日敗戦記念日の一日前横田基地の前のまるで野戦病院のような病院で死んでいったのだ
象徴的すぎないかーー戦争の落し子と言われ施設で育ち天性のセンスで音楽に携わり音で金を得ることを米軍基地で学びーーー基地関係者の息子に突き飛ばされて引導を渡された。これほどの道を歩んだ人は居ない。冨士夫君のギターの素晴らしさは冨士夫君の生き様と死に際まで完全に一致している。完璧なのだ。

その一週間後に引越しした。続けて秋のハイシーズンにーー
何回かデモにも参加した。おかげでよく歩いた、犬の散歩と併せたら人生で最高に歩いたとしだろう。浮腫んでいた左足もスッキリした。土踏まずもクッキリ!
しかし身体は疲れていたのだろう。代々木公園の11月末のデモのあと背中に痛みが走った。
サロンパスを背中に張ってもらって3日後に家人が爛れているよと言った。膏薬の爛れかと思っていたら突然お腹の前まで爛れが広がった。これが帯状疱疹なんだとすぐに医者に行った。
眠れぬ日が続いた。よくしたもので3週間すぎると瘡蓋になった。
病院のついでに血液検査と前立腺の検査もした。肝臓には冨士夫君と同じルーツの肝炎があるが今回の数値は至極健康数値だった。前立腺の検査は触診だ。突然なので驚いたが年相応で異常なし。病院の嫌なところはさあ次は胃カメラやりましょうーー予約しましょうかなんて勧めてくる。
背中が爛れてお腹まで回ってくるまで医者に行かなかった私に検査検査を勧めるのは仕事といえいただけない。最近頻尿ぎみですがの一言が泌尿器科へC肝キャリヤなんですが血液検査へ少し胃が痛みますが胃カメラの予約へーーーまさに医療ビジネスなんだな。
冨士夫君も病院嫌いの固まりだった。昏睡状態で入院しても目が覚めると嫌だ!帰る!
そうなんだーー医者には対処して貰うだけでよいのだ。今回自分が病院に通って痛感した。
思い返しても3週間も毎日点滴したことがない病院に通ったこともない。初めての病気らしい病気をしたことになる。
忘れらられない年になった。昨夜正月の暇つぶしに何冊かの本を買った。その中の沢木耕太郎の短文に山口二矢が生きていたら40歳と書かれていた。今、山口二矢が生きていたら70歳のはずだ
私より一歳年上だからだ。17歳から思考停止状態の私かもしれない。あの日忘れら得ない。

2013年8月20日火曜日

出会い直して6年ーーー

8月14日冨士夫ちゃんは亡くなった。
6年前突然冨士夫から電話が来た。直ぐに立川国立救急センターに来てくれと。
駆けつけたら車椅子に乗っている冨士夫がいた。
それから6年になるかなーーー京都時代より濃密に付き合えた。
京都には68年くらいに冨士夫ちゃんは来たのだろうーー村八の記事を読むと69年結成とある。
TOOMACHのイベントをかわきりに全共闘運動と連動して時代が動いたのだ。京大西部講堂を解放区にしようとMOJOが企画され幻野祭がおこなわれ村八が生まれた。前後関係は好き者にまかせようーーー唐さんは来る、麿さん、瓜生さん、なんでも在りの京都だった。私の先輩、泰ちゃん、小松ちゃん、きーやんが中心になりたくさんの楽しい人間が集まった。表舞台は西部講堂、それを支えていたのが九条山ヨシダミノルさんのアトリエだった。ミノルさんはニューヨークに居て不在だった。留守を預かる弟さんも仲間だったから自由に広い空間をつかっていた。村八のスタジオまで作ってしまった。話を戻そう。
冨士夫は宮井さんの紹介で京都の木村英輝さんきーやんをたよってきたのだ。
冨士夫に聞くと京都には無尽に吸い物やエルがあったから来たんだとと言っていたがーー
芸能界にうんざりして何かを求めてやってきたののだろう。
おませな、ちゃー坊と冨士夫を組めばおもろいでときーやんが乗り出した。持ち前のイベンターのなせることだった。
長い時間をかけてアメリカ、ヨーロッパで生まれ育ったアンダーグランドが一気に旅人外国人により京都に持ち込まれまさに何でもありの状況だった。
変革の副作用におぼれる日々が続いた。私は京都を離れた。冨士夫も東京に戻っていた。
誘われて何度かライブで見かけるくらいだった。6年前の電話まではーーー
哲の死んだ時は冨士夫はあちらに居たから私は冨士夫会っていない。哲と冨士夫は強い共鳴体だった。
哲の死んだのも8月の大文字のあとだった。暑い暑い日に深草で見送った。
冨士夫はボロボロの身体でなんとかも一度、音を出したい。その一心だったのだろう。まず治療費がいる。
生活費がいる。私だけではまかないきれないーーー生活保護を勧めたが叱られた。音で稼ぐとねしかし当座は無理だ勝手に支える会を立ち上げた。多くの人がお金や元気になるからと自然薯、玄米、各地のお水、どんどん送ってくれた。冨士夫はとにかライブをやれるまでになった。西部講堂の企画にも出てくれるまでに回復していた。
ある時私の知り合いから山口冨士夫ってギター知ってますかと聞かれた。彼は40年アメリカ暮らしウッドスットクもジムヘンもジャニスも勿論ストーンズもディランもすべてライブで見ていた人なのだ。
どうして山口冨士夫なんですか知り合いですかと尋ねたら日本に帰ってきて何を聴いても本物は居ない唯一山口冨士夫のユーチューブを見たらこの人だと思ったから聞いたんだよーーとの事
私はめんどくさい男ですよと答えるとすかさず彼は当然でしょうあれだけの音を出せる人は個性のかたまりだから面倒な人でいいのですよとーーー
そうかそうなんだ!冨士夫の身近に6年いられてーー目の前でギターを弾いてくれてーー
ある時次のライブで私に好きに歌いなよ後であわしてやるかなんてサービス言葉まで掛けてくれて
厚顔に受けとけばよかったーー最後のライブになったがアースダムで3Lの村八分Tシャツをプレゼントしてくれた。まさか一ヶ月眠り続けて敗戦記念日の前日に死ぬなんて!
ありがとうと大きな声を荼毘にふされる前にかけることことしかできなかったーー
ありがとう6年前に電話してきてくれて助けてよと言ってくれなかったらーーーつまらん時間をぼんやり過ごしていただろうーーーありがとう いつまでもありがとう!

2013年8月6日火曜日

311で何かが変わる?幻想?

311の震災は何かを変えるきっかけになるのか考えていた。
3月14日仙台の仲間と連絡をとりながら私の会社の車は満載の食料を積んで東北高速にむかった。運転は私の盟友T君 道案内に前浜出進のM君 M君は前浜の両親に連絡が取れずに困って乗せて行ってくれと頼んできた。
報道では高速は通行止め支援物資は赤十字にとのことだった。仙台からは現地は食い物がないどんどん自衛隊が来てるから高速も通れるのではないかと言ってきていた。
T君に気転で川口インターで警察と交渉し積荷を見せたら緊急通行許可書をくれた一ヶ月有効のをだ。福島に近ずくと道は段差が激しくなったそうだがとにかく走れた。まずはM君の実家のある前浜経由で多賀城市役所をまざした。15日の夜明けに前浜に着いた。M君の家は傾いていたがあった。両親はM君を見ても呆然としていたそうだ。
多賀城市役所の救援物資置き場には何もなかった。係りの人は一番のりをおどろきながらも喜んでくれた。仙台の仲間の一人は女川から歩いて石巻までたどり着きそこから自転車で仙台まで帰ってきていた。
石巻はもっと食料がない。魚の加工場から流れ出た魚をたべている。折り返して石巻に食料をと彼は頼んだ。東京で次の荷物の準備をした。調布柴崎の農協が野菜や米を出してくれた。おにぎりも1000個地元の人が作って折り返し便を待っていてくれた。今では笑い話だが私も含めて協力した家には米も野菜も無くなっていて京都から送ってもらった。
3月19日に45号線がやられているから仙台の仲間が山道を案内して石巻に入った。荷物は自衛隊の人達がおろしてくれたそうだ。
その後私たちは何か出来ないかと柴田町にある知り合いの空き家を無償で借りて試みたがやはり地元の人がやることに協力するのが一番だと考え泥掻きに向かう仙台の仲間にカンパすることに徹した。
高速道路では軽油も満タンにしてくれ感謝の言葉を掛けられていたそうだ。
ただ今、思い起こすつと既にその時は放射能は空を覆っていたのだ。報道も大丈夫大丈夫の連発。 やたらと絆、絆、の連呼ーーー
絆は心から相手を思いやることから生まれる。大丈夫と嘘をならべて絆を叫ぶーー
おかしなものだ。
どれぐらいたったであろう反原発運動が始まった。原発の存在は経済至上主義の行き着いた結果だ。その経済至上主義を返上しなければ原発は無くならない。
原発は資産なのだ廃炉にすると電力会社は破産する。銀行も破綻の危機に!
さてどうするーーーそこなのだどうすると云う対案がどこからも聞こえないーー
自然エネルギーとか電力は足りているとかそのようなレベルのことなのか?
私が高校の時、社会主義に憧れていたしかしそれは幻想でしかなかった。
今また反原発に幻想をもってはいないか?
日本が世界が311以降何か変えられたか?変えようとしているのか?
先日 仙台に行った。かってないほどの賑わいだった。大船渡にも行ったが土建屋天国だった。
震災で非難していた年寄りはまだ仮設にいるのだろうーーー
浜辺には巨大な堤防を造る。 何もかも経済至上から変わっていない。
変わったあとの姿がそうぞうすら出来ないでいるからだ。
今、必要なのは生き方の問題なのだ。一人一人がそれに気づきそこから生まれるものが反経済至上主義でその結果として脱原発がなしえるのだ。極論すれば江戸時代に戻ろう!覚悟がいりますぞ!覚悟を持ってこそ出来ることなのだと思う。

2013年7月2日火曜日

今日 69歳になった!

生まれた時は戦争の時。1944年 母に言わせれば子供たちの食べ物に苦労したとのことーーー
私の一番古い記憶ーー満員列車で母の友達のいる山陰の八鹿に行き駅前の材木屋の掘りごたつに潜っていたこと。4歳か5歳だと思う。母は背中に荷物を背負い両手にも袋をぶら下げていた。
食料の調達に行ったのだ。
列車が京都に近ずくとなんだかがやがやしだした。警官が闇物資の手入れだとのことーー勿論そのようなことは当時は知らない。
大きくなってあの時のことを思い出すとそうだったのかとーーー円町の鉄橋を渡ると母は荷物をそとに投げた。父との約束の場所だったそうだ。二条駅に着く前に手に入れた食料を投げることにより警官に没収されるのを逃れたのだ。
すべて後に父母の話で知った。しかし断片的に記憶にある。
今、58歳で死んだ父より10年も72歳で死んだ母の歳に近くなってきた。
父は二度戦争に行った。1942年に満州に1944年にシンガポールにだ。万年二等兵ーー
前線が嫌で炊事場係りに志願したそうだ。誰もが嫌がる炊事場が一番美味い物が食えるとの話していた。だが満州では酷いことをしたとも話していた。軍票との日本軍が印刷したお金で豚や野菜を強奪したようだ。
酒も飲まなかった父が戦地で酒を覚えてきた。戦地から母に金を送れと手紙をよこしたそうだ。
戦争が父を道楽者にしたのか素地があり戦地ですさんで火がついたのかもしれない。
誕生日の今日、生んで育ててくれた父母のことを思い出した。

2013年5月3日金曜日

本物の慶応ボーイ

春の展覧会のピークを迎えつつある。
今の仕事に就いて40年近くになる。京都を追われるように逃げてきてアルバイトニュースを見ていたらーーー美術品取扱い業と書かれていた募集記事をみつけて電話をかけた。
翌日に面接に来いとのことーーー東京の右も左も分からぬ身、鶯谷駅下車とのことに従って山手線にて鶯谷へ、名前の響きは素晴らしいがラブホ街のど真ん中に改札口、今もまったく同じ景色、
尋ね尋ねて上野桜木にたどり着いた。
今にも壊れそうな大きな民家の軒下に銀彩堂の看板が揺れていた。
畳の部屋に机二台とやけに立派な革ソファー薄暗い中に、凛とした初老の紳士が一人居られた。
のちに知るのだが慶応幼稚園からの慶応ボーイ、彼曰く慶応ボーイと名乗れるのは幼稚園から大学まで出た人のみとの事だ。同級生に松田君、服部君、マツダの社長に精工舎の社長だ。
銀座で銀彩堂画廊を同時に経営されていたが絵描きに請われて額縁と搬入出代行業を上野桜木で営まれていたのだ。
私がそこへお世話になった時にただ一人の先輩が寺さんここではね退屈の時間をいかに過ごすかが仕事だよ。まさにその通りだった。経営者は午後には銀座へあとは二人でひねもすのたりのたりーー冬と夏は特に暇!当然ながら経営は大赤字の連続。給料遅配は当たり前の状態がーー
京都に本社のある大手美術運送会社の社長からビッフエの大作500号を巻いて輸送し巡回先で張る仕事の依頼が来た。初めての大仕事、三越本店をかわきりに札幌から博多まで巡回展について回った。その事をきっかけに会社を替わらないかのお誘いが来た。先輩は替わると言う。
二人が去ると慶応ボーイさんはどうなるのーーー元々大手は苦手な私、先輩にどうぞと言って一人残った。その先輩は大手で仕事を覚えて定年退職、今、私の受ける難しい仕事を時々手伝ってくれている。人形や軸物を扱わせると見事な仕事をしてくれる。
本題の慶応ボーイさん劇作が夢で大学時代に芥川也寸志さんと劇団を創り、君の名をのラジオヒロインが義姉とかーー日産自動車販売会社の創業者の息子。ダットサンの契約書NO1を見せてくれた。自宅は洗足でお隣が松平さんーー進駐軍に接収されて実兄が起こした会社が乗っ取られーー
絵に描いたようなお人だった。
いつもYシャツはピンとしていて皺ひとつない。
ある時仕事上がりにアルバイトとするめを肴にしていると乞食の酒盛りはやめなさい!一渇された。どんな時でも雪印6ピーチーズがかれの定番だった。
彼が去って私が新会社を立ち上げて10年くらい過ぎた時、亡くなったとの知らせが来た。浦和の自宅に伺うと寝床の周り彼がに好きだった絵描きの絵が10枚以上キャンバスのままで立て掛けてあった。
見事な慶応ボーイさんだった。

2013年4月15日月曜日

永らく書き込まなかったーーー

この数年日本はひっくりかえった ある人は新世界の始まりと言うーー
宇宙からのメッセージと言うーー
地震とて何万年の地球のほんの瞬間の出来事
人間の傲慢がここにきて破綻お道を歩み始めた。ただそれだけのことーー
あと一年で私も70歳 遺言の準備にそこはかとなくかきつづりーー
仕事場の前の公園には菜の花が咲き乱れ残り少ない八重の桜が花びらを落とし
我が辞世と定めた 花落ちて 川面のちりと流れても ゆきつくさきは 黄泉のうなばら
2ヶ月ぶりに旧友宅を昨日訪ねたーー二ヶ月前にはもうだめかなと思うほど彼は憔悴していた。
どっぷりドープにはまりその後は酒 酒の日々ーー
昨日あったらなんと顔色よくこけた頬も回復しいた。6月にはライブもやるとーーー
酒は断った!死線をさまよい断酒 酒を断つこのことは彼にとっては考えられなかった。
そこでーーー原発を断つ 考えられませんか よいしれた私たちの快楽を断つ時が来たのです。
マネーはツウールです。それなのにマネーの支配する世界ができた。
原発もマネーの産物!この仕組みこそ地球の破壊につながっています。
少しの断欲で再生するラストチャンス 
こんなことを書き綴っていこうかとーーー

2010年12月5日日曜日

西部講堂はーーー

姿 形は かわらねど 煌めき無きは 意味のないことーーー
ただそこに残骸のごとく あった!
見る私にエネルギーを受ける能力が薄れたのかとも思ってみたがーーー
イベントのリハーサルが始まっても数人の人がただなんとなく動いているだけーーー
はやっていないライブハウスの開演前ーーー
そうか 西部講堂は単なる 小屋になったんだ!
いみじくも フジオが言っていた 燃やしてしまえ!---
フジオ独特の勘なのかーーーあるから いつまでもただあるからいけないのかもしれない
それはまるで 荒れたお寺 いや 荒れたお寺は不気味と云うエネルギーを出している
今の西部にはその 不気味すらない!
もう少しゆっくり整理してこの事を考えよう
今回 京都で素晴らしい若者達に出会った
若者が10人集まって町屋を借りて溜まり場を作っているのだ
そこから発信する まさに 西部講堂を自分達で作っているのだ
このあたりに 何かがある 
京都ファクトリーと彼らは名ずけている