2009年8月29日土曜日

昨夜 西部講堂で

再生 FTB フラワートラベリングバンドときーやんの絵のコラボイベントが行われた。京都の夏の暑さは格別なものがある。西部は勿論 エヤコンなんてのはない!当初この夏 きーやんは大掛かりなロックイベントを考えていたようだが会場の問題がありやむなくフラワーのみとなった。フラワーはらアメリカツアーにでかけていたようだ。アメリカではシターラのオリエンタルな響きと(悟り)がマッチして好評だったそうだ。西部講堂では心配していた客も500人を越え、さすがきーやん パワーあるな!フラワーと云えば メイクアップコンサートもMOJOのメンバー達でやったな 発泡材で大きな象をつくり、ジヨーがターザンさながらに象に乗り 悟りを歌っていた。京都で金儲けでなく 皆が楽しむ 祭り そんなイベントが何故やり続けられたのだろう きーやんはじめ皆が楽しんでいた。それしかない。その極みがフランクザッパのイベントだった。きーやんが最初にザッパの話をもってきた時、西部講堂では学生間のトラブルで事務所を近くのYMCAが運営している地塩寮にあった。学生は外タレの公演に何故 西部講堂を使わせるのか!金儲けの片棒は担げない!大反対だった。私はきーやんにかわって 馬鹿野郎!何が金儲けだ!いくら入っても600人が限度の西部講堂でザッパをやって金が儲かる?寝ぼけるな!詳しく説明するまでもない。学生達はわかってくれた。それからが大変 裕也さんはどうしても西部でザッパをやりたいどんなに赤字をだしてもやりたい。ザッパサイドに無理を頼み東京での公演をひとつふやした。私達もなにがなんでも成功させようときーやん泰ちゃん小松ちゃんそしてMOJOのメンバー再動員!色々仕掛けた正にこれまでの総仕上げの感があった。仔細は次回に!

2009年8月23日日曜日

思い出すことがーーーー

ありすぎて前後の関係がぐちゃぐちゃ 読み難いでしょうがご勘弁ください。村八分が生まれた頃を思うと水谷君の裸のラリーズの事を抜きにしては語れない。水谷君のことは小松ちゃんに教えられた小松ちゃんは同志社の放送部によく出入りしていた1965年ころかな同志社はブンドの活動拠点だった。清水と云うペンネームだった藤本敏夫(後に加藤登紀子さんの夫)氏がリーダーだった。ベトナム反戦運動の中心メンバー鶴見俊輔氏も同志社にいたと思う。藤本さんと泰ちゃん小松ちゃん達がベトナム反戦の闘士 ジェーンホンダが来日した時 彼女を同志社に招いた。前売りは完売 当日は溢れるばかりの人の波 取りあえず第二会場を準備するも間にあわず勿論 チケットもない確か千円だったかとにかく現金受け取りどんどん入れた。会場の外に溢れた人の為にジェーンさんが階段に立ち中庭の人たちにギターを聞かせた。水谷くんとはその頃 出会った。小松ちゃんは水谷くんに惚れ切っていた。まだフジオたちと出会う前だ。教育文化センターのホールで客は僅か7名 関係者入れて15名くらいの入りだった。そんな中で小松ちゃんは資金稼ぎの為か 園まりの公演にも関わっていた。今から思うと奇妙な感じだがファションショウの演出や照明も同時にしていた。小松ちゃんに付いて廻っていた私はお陰で色々な人に出会えた。私は徐々にロックの仲間にのめりこんで入った。政治活動、演劇の人達は 酒!ロックの人は非合法へ!どちらも酩酊を求めていたのか!?酒の人は早死にした。泰ちゃん小松ちゃん藤本さん。この世にいない!

2009年8月18日火曜日

幻野祭と西部講堂

西部講堂の屋根に絵を描こうと思いついたのはきーやん もともと絵の上手い人加えて派手好き!泰ちゃんものりのり71年に成田空港反対闘争の中で祭りをとやられた幻野祭は京大のバリ祭のイメージそのものO次元も参加していた。72年に第二回幻野祭を京大でやろうと云う事になった。8月14日15日16日の3日間 すべて無料 カンパがたよりの大イベント その幕開けが西部講堂の屋根のペインテング デザインは九条山ヨシダミノルさんのアトリエグループ このアトリエは主人が渡米中だったので若者たちが自由に使っていた。村八分もスタジオとしていた。デザインのチーフは一昨年他界したゴリさん 夏らしく白い雲が浮かび3つのオリオンが輝く、3つのオリオンは赤軍のメンバーの死を思うのイメージと重ね合わすもご自由にとゴリさんは思っていた。とにかく美しかった。その画像は村八分のジャケットに残っている。ただただ大変だった。暑かった.屋根の勾配が想像以上にきつかった。ペンキ代が当時で20万以上かかったような覚えがある。ペンキは買っても買っても屋根に吸い込まれていく後にきーやんが誰の金だったんだろうと私に聞いてきた。私は若くして親の後をついでいた。店の売り上げを毎日ポケットに入れて京大通いもう時効だが立命の中川会館にも店のトラックにガソリンと灯油積んで差し入れしたこともあった。汗だくで20人ぐらいかな2日たっぷりかかった。山岳部もロープや人手も協力してくれたと思う。それだけでなくバス停にブルーに塗った空き缶ぶらさげ矢印すべてを京大に向けた。オープン前夜に路上にブルーの矢印たどれば京大農学部グランド ロックは農学部グランド 西部講堂では芝居や舞踏 メインは16日の大文字に併せたロックイベント豊田勇造が大文字と云う歌を赤々と燃え盛る大文字をバックに歌っていた。

2009年8月17日月曜日

幻野祭まで

1970年大晦日に紅白だけがはないだろうときーやん泰ちゃんが徹夜でやろうぜロックを!ご近所様には騒音と苦情が警察に通報されたが毎年恒例になった。後に西部の大晦日に出ると翌年ヒットすると言われるようになった。キャロル出た翌年にはダウンタウンが白いナッパ服でキヤロルの黒のレザーのつなぎ服をパロッたのだろうと笑っていた。見事にヒットした。ガロもカルメンマキも元々は裕也さんの選択が素晴らしのだろう。ある時がらがらの京都会館で私の隣に裕也さんがいて このバンドいいね
と言ったのがウエストロードだった。1971年3月MOJOが西部講堂でスタートした。隔週というハードな企画 時々円山公園の野外音楽堂や府立体育館でのビックイベントをまじえての展開だった。府立体育館では過激派の資金集めと勘違いした警察が乗り込んで来た。MOJOのちらしが(今どきはフラィヤーと言うよだが)過激派とされた人たちの出入りする店に置かれていたからだ。MOJOは政治も芸術もいわんや宗教も関係なく楽しく集まるそのことだけ たまたま過激派の人たちも同じような店に来ていたのだ。MOJOは常に金銭的にはピンチ ノーギャラが当たり前 交通費も出せないそれでも東京から来てくれた。なんだったんだろう 楽しかったのだろう そんなことは警察に想像すらできなかったのだろう。
世間の常識からはずれると過激派とされるならMOJOも同じなんだろう。幻野祭はつぎにーーー

2009年8月13日木曜日

西部講堂の自主管理

正確な日時は覚えていないが泰ちゃんの奥さんがやっていた吉田山の白樺で話がすすんだ。大学は皆のもの自冶が基本 しかし安保闘争 三池闘争 次々と権力に打ち負かされ大学の自冶すらも警察導入となっていた。そこで西部講堂を学生の自主管理にする。その為には持続的にイベントを打ち学生以外の若者がいつも集まる結果的に 皆の空間 このことが大切なのだと 同じことが同じ時期に 吉田寮と熊野寮で展開された。京都には元々 学生はんと云う呼び名が市民にあった。親しみとしての呼び名 学生はんがしゃはることやさかいになあ こんな感じで少々のことには寛容だった。教授の中にも多くのリベラルな人がいた。高橋和巳さんはその代表格だった。のちに泰ちゃんが死んだ時 当時京大総長だった奥田東さんが葬儀に参列し泰ちゃんをしのんでいた。敵対するのではなく心の奥底で共有するものがあったのだろう。学生のなかでの対立のほうがやっかいだった。映画部と軽音楽部が既得権に固守した。彼らも加えて西部講堂連絡協議会を作った。小松ちゃんは状況劇場の唐さん舞踏の麿さん達を呼びきーやんは内田裕也さんと連携してロックのイベント MOJOを企画した。こうして西部講堂は自主管理に道をつけた。その決定打が幻野祭!

2009年8月6日木曜日

旅からもどって

少し話がとぎれましたがきーやんと会って8月のロックイベントの話しを聞きました。当初はかなりの規模 70年代の再現を考えていたようだが会場の問題がネックとなった。大音響これを騒音ととらえられて京都市サイドのokがとれなかった。やむなく西部講堂で再生フラワーときーやんの絵のコラボイベントにするそうだ。ロックを騒音とされることは40年たってもかわらないのだなーーーそして未だに西部講堂だけが我らのスペースなのか?西部講堂のことを少し詳しく書き込んでいこう。バリ祭 これがすべての始まり京大のバリケードの中で祭りをやろう!小松ちゃんと泰ちゃん(高瀬泰司)全共闘のメンバーが中心になってだ。小松ちゃんは裸のラリーズの水谷君をすごいやつだと常々話していた。そのラリーズ、ゼロ次元の全裸パホーマンス、スキャンダラスの渦中にいた荒木一郎 こんなメンバーだった。安保の時は社会主義が標榜されて夢見た私だがバリ祭のころは反権力 ただそれだけだった。楽しかった。ロックのシーンではきーやん(木村英輝)がTOO MUCHというイベントを京都会館でやっていたと思う。その頃、西部講堂は京大映画部と演劇部が管理していた。そこに目をつけたのが泰ちゃん 泰ちゃんは京都府学連の代表 京大全共闘のリーダー 小松ちゃんは小劇場ドラマ工房の主宰者 きーやんはイベントプロジューサー この三人が西部講堂を自由空間 誰でも使えるようにしようとしたのだ。政治的に知恵の働く泰ちゃんが考え出した方法が西部講堂連絡協議会の設立 まさに40年たった今もいきつづけている。

2009年8月5日水曜日

京都から十津川へ

京都できーやんを訪ねました。集団納骨棚に蓮の絵を描いていました。お墓は後を守る人がいる。家族という単位 一番小さな単位がなくなりつつありそれでも自分の死後はなんらかのかたちで残したいのかなーーーそれとも死後の準備をすべて自分で整えておき安心したいのかな?なんだかそんな疑問が浮かびました。京都はまさにお寺の町どこを歩いても寺ばかり沢山の人が寺を訪れる。たしかに美しいし心が癒される。それと死後の準備はべつのことでしょう。京都から十津川の山奥に住んでいる友人の家に行きました。彼らは違うが全共闘運動のあと多くの人が何かを求めて自然の中に移り住みました。自然農法を目指した人そこで組織化して事業にした人もいる。漢方医療に向かったひともいる。禅寺や日本山妙法寺や山岸会に何かを感じて入った人も多い。十津川にもかなりの人が自然の中で暮らしたいとの思いで住んでいる。私は僅か4日の滞在で美味しいとこだけ味わったが日常品の買い物に往復2時間 町までは往復4時間 戸数16軒 人口35名 ほとんどが高齢者 いわいる限界集落 でも心豊かに生活は営まれている。かってロックイベントに関わっていた人たちも蒔きを割り風呂をわかし いのししや猿と知恵比べしながら自給自足生活をおくっている。不便を承知の上で!若者は皆、大阪や京都、東京に出て行ってしまっている。何故だろうと考えせせられる旅でした。