生まれた時は戦争の時。1944年 母に言わせれば子供たちの食べ物に苦労したとのことーーー
私の一番古い記憶ーー満員列車で母の友達のいる山陰の八鹿に行き駅前の材木屋の掘りごたつに潜っていたこと。4歳か5歳だと思う。母は背中に荷物を背負い両手にも袋をぶら下げていた。
食料の調達に行ったのだ。
列車が京都に近ずくとなんだかがやがやしだした。警官が闇物資の手入れだとのことーー勿論そのようなことは当時は知らない。
大きくなってあの時のことを思い出すとそうだったのかとーーー円町の鉄橋を渡ると母は荷物をそとに投げた。父との約束の場所だったそうだ。二条駅に着く前に手に入れた食料を投げることにより警官に没収されるのを逃れたのだ。
すべて後に父母の話で知った。しかし断片的に記憶にある。
今、58歳で死んだ父より10年も72歳で死んだ母の歳に近くなってきた。
父は二度戦争に行った。1942年に満州に1944年にシンガポールにだ。万年二等兵ーー
前線が嫌で炊事場係りに志願したそうだ。誰もが嫌がる炊事場が一番美味い物が食えるとの話していた。だが満州では酷いことをしたとも話していた。軍票との日本軍が印刷したお金で豚や野菜を強奪したようだ。
酒も飲まなかった父が戦地で酒を覚えてきた。戦地から母に金を送れと手紙をよこしたそうだ。
戦争が父を道楽者にしたのか素地があり戦地ですさんで火がついたのかもしれない。
誕生日の今日、生んで育ててくれた父母のことを思い出した。