春の展覧会のピークを迎えつつある。
今の仕事に就いて40年近くになる。京都を追われるように逃げてきてアルバイトニュースを見ていたらーーー美術品取扱い業と書かれていた募集記事をみつけて電話をかけた。
翌日に面接に来いとのことーーー東京の右も左も分からぬ身、鶯谷駅下車とのことに従って山手線にて鶯谷へ、名前の響きは素晴らしいがラブホ街のど真ん中に改札口、今もまったく同じ景色、
尋ね尋ねて上野桜木にたどり着いた。
今にも壊れそうな大きな民家の軒下に銀彩堂の看板が揺れていた。
畳の部屋に机二台とやけに立派な革ソファー薄暗い中に、凛とした初老の紳士が一人居られた。
のちに知るのだが慶応幼稚園からの慶応ボーイ、彼曰く慶応ボーイと名乗れるのは幼稚園から大学まで出た人のみとの事だ。同級生に松田君、服部君、マツダの社長に精工舎の社長だ。
銀座で銀彩堂画廊を同時に経営されていたが絵描きに請われて額縁と搬入出代行業を上野桜木で営まれていたのだ。
私がそこへお世話になった時にただ一人の先輩が寺さんここではね退屈の時間をいかに過ごすかが仕事だよ。まさにその通りだった。経営者は午後には銀座へあとは二人でひねもすのたりのたりーー冬と夏は特に暇!当然ながら経営は大赤字の連続。給料遅配は当たり前の状態がーー
京都に本社のある大手美術運送会社の社長からビッフエの大作500号を巻いて輸送し巡回先で張る仕事の依頼が来た。初めての大仕事、三越本店をかわきりに札幌から博多まで巡回展について回った。その事をきっかけに会社を替わらないかのお誘いが来た。先輩は替わると言う。
二人が去ると慶応ボーイさんはどうなるのーーー元々大手は苦手な私、先輩にどうぞと言って一人残った。その先輩は大手で仕事を覚えて定年退職、今、私の受ける難しい仕事を時々手伝ってくれている。人形や軸物を扱わせると見事な仕事をしてくれる。
本題の慶応ボーイさん劇作が夢で大学時代に芥川也寸志さんと劇団を創り、君の名をのラジオヒロインが義姉とかーー日産自動車販売会社の創業者の息子。ダットサンの契約書NO1を見せてくれた。自宅は洗足でお隣が松平さんーー進駐軍に接収されて実兄が起こした会社が乗っ取られーー
絵に描いたようなお人だった。
いつもYシャツはピンとしていて皺ひとつない。
ある時仕事上がりにアルバイトとするめを肴にしていると乞食の酒盛りはやめなさい!一渇された。どんな時でも雪印6ピーチーズがかれの定番だった。
彼が去って私が新会社を立ち上げて10年くらい過ぎた時、亡くなったとの知らせが来た。浦和の自宅に伺うと寝床の周り彼がに好きだった絵描きの絵が10枚以上キャンバスのままで立て掛けてあった。
見事な慶応ボーイさんだった。